AFTER'95

1995年1月15日、奥田民生の3rdシングル『息子』は発売された。翌々日の17日の阪神・淡路大震災の発生により、平成不況は決定的なものとなったといえるだろう。僕は当時19歳だった。奥田民生のソロデビューお披露目は1994年に名古屋大学映画研究会の部室のテレビで部員たちと観た。いま振り返ればのどかな時代だった。肌寒い10月で僕は赤と白のチェック柄のコートを着ていただろうか。あれから四半世紀ほどの時が流れた。僕は震災後のことを長篇小説にまとめようと構想した。ブログで所信表明を公開して、第1章を立て続けに投稿。1996年1月14日の成人式を題材に創作した。ページビューが300近くになったところで下書きに戻した。理由はさまざまだが、最大の要因は続ける自信がなくなったからだ。僕は1992年の17歳から30年間、短篇小説を中心に書いてきた。長篇の構想はその間に何度でもあった。だがしかし絶えず挫折を繰り返した。今回もその反復に過ぎない。構想では「白い顔」「赤い服」「黒い手袋」の三部構成だった。名古屋・東京・豊田をそれぞれの主な舞台とする。すべてを投げ出したわけではない。いつか取り組みたいライフワークではある。昨日、Twitter文藝賞短編部門の公募の告知があった。20~50枚以内の未発表原稿で一人3作まで応募可能だという。文藝賞には2015年くらいにいちど応募したことがある。一次予選落ちだ。2015年といえば早稲田文学新人賞で兄弟ともに一次予選通過した。町屋良平や門倉ミミも通過していた。僕らは二次予選には通らなかった。あれ以来、公募の新人賞では結果は出ていない。今年の年末〆切の文藝賞短編部門には応募してみたい。応募すれば、2020年の太宰治賞以来だろうか。構想はいまのところ一つある。冒頭は書いた。作家志望者の激戦となることだろう。文芸誌と同人誌についてずっと思い悩んできた。手数が多いのは一概に悪いことではないのではないか。たぶん結果には恵まれない算段が高い。そうしたら短篇をまとめて自己編集で本にしたい。自分の小説は広く読まれるものではないだろう。パーソナルで本能的な作品だという諦観を抱いている。技巧や娯楽性に秀でているわけではない。小説を書き始めた動機としてはマジョリティの歴史化に抗するためというのが大きい。体制的な言説に対し、個人的な歴史を組み立てる試みがしたい。大江健三郎のレイトワークに惹かれるのはそういうわけだろう。新年度から通信制大学に再入学したので大江を研究してみたい。できれば卒業後は司書資格を取得しようと思っている。就労の見込みはないがゼロではないだろう。作家は夢のまた夢として経済的自律を目指したい。月十数万でもいい。まあこれもまた夢の話なんだが。